2022年1月29日 流れる記憶と日記

いい感じにお風呂に入ったのでいい感じに眠たい。湯船に浸かってあとは、必ず眠たくなるし眠らないではいられない。少しずつ眠りにギアが入っていくからほんとにいい感じだ。

いま、というかここ数日くらい、生活を円滑にするのに必要なだけの握力がない。スマホの操作くらい軽い動きにもなんとか対応するような状況で、なんとかやれる範囲でインターネットを眺めてる。インターネットごしの記憶は「無さ」や「喪失」への感覚が濃くある。見ているツイートの背後には無数の見ることのないツイートがあって、知らない世界がどこまでも広がっていることがわからないままわかる。見ているこれは一部でしかない。それに、それだけじゃない。ツイッターは次から次へと流れていくから、自分の意識も流動体を取るようになる。ツイートしたり、調べようと思ったことを掴めずにただ流れていくのを追えずじまいになる。禅とか空の境地ってこれ?たぶん違うけど、もしこれだとしたら今のままこの状態を日常とするのはすごく怖い。もともと付いていけていないけど、どうしようもなく取り残されるような不安がずっと残ってしまうと思う。それを乗り越えてこそ禅とか空の境地なのかもしれない。入り口に立って恐怖してるのかも。

部屋が片付けられなかったから、とりあえず全部床の物を床から排して、掃除機だけかけた。
部屋が片付けられない。高校生だった頃よく聴いていた音楽をまた聴くようになった。その頃を再現するみたいに、そればかり聴いている。BUMP OF CHICKENとかandymoriとか、今日はクリープハイプも聴いた。そういう時期なんだと思う。数年前から、聴く音楽がグッと広がったような感覚があった時期を経て、また狭く聴いている。よかった部分も、そうでない部分も過去を取り戻すような感覚がある。思い出したり、思い出そうとするのって楽しい。思い出せずにもやもやとし続けることすら、過去を掘り返す手があるだけで楽しい。ちょうど忘れていた記憶にたどり着けたときはどうしてあんなにうれしいんだろう。身体に覚えさせたらいけない感覚のような気がする。最近は小学生だった頃の記憶を一人称視点で思い出そうとしている。休み時間にやったけいどろのことと、担任の先生がピアノを弾く姿は思い出せた。

片付けには苦手意識があって、やりたくないことの筆頭だけど やらずに放置したら生活が下から削れていくみたいな不安定な生活になる。かと言って、やりたくないことをやろうとするとすごく負荷がかかる。それに時間もかかる。これにリソース割きたくない〜駄々をこねていたい〜やっても、やらなくてもよくならない。お金で解決できる問題かもしれないが、それだけの財力もないからどちらかの選択をし続けて負荷をかけていくしかない。

220129 心の健康|藤原|note

藤原さんのこの日記、終わり方が最終回ぽくてかっこよかった。最終回の最後にオープニング曲がかかるようなかっこよさ。なんか前にも藤原さんの日記に最終回を感じてかっこよく思ったのにどれだったか忘れちゃった。でも日常だったものに最終回が演出されているとかっこいい!って思う。ベタなのかもしれないけど、とにかくかっこいい。

'22 1/21-1/27「描画の無限階段」-金曜週報|はらつかう|note

はらつかうさんの週記。話題の広がりかたというか、散ったり戻ってくる感じが好き。毎回読めてるかわからないけど、読んだらだいたい毎回好きだな〜と思ってる。だいたい、って書いたのは自分の記憶への信用がないから。流動体になってる意識の蓄積としての記憶なんか信用ならない。借りる予定はないけど、この信用のなさだとお金貸してもらえないよ!!絵が描かれていく途中に印象ががらっと変わることがあるのが好き。描かれていく様子だけが30秒とか1分とかにまとめられて、ペンが勝手に描いたみたいになってる動画、たびたび見かけるけどあれはあまり好きじゃない。今回のはらつかうさんの動画くらいの編集があったり、そのまま生配信してるくらいの絵の描かれかたとその変化が好きだ。ライブペイントとかもまれに見に行く。

noteの引用ってたぶんnoteでやると通知いっちゃうんだろうな、と思ってここでこっそりとやる。オモコロライターの日記を読んだり読まなかったりしてる。恐山さんのウロマガは読み逃さないようにしてるけど、藤原さん 神田さん 鬼谷さん はらつかうさんあたりは読めたり読めなかったりだ。ふぁんハニとか城戸さんのマガジンとか店長さんのいまからだと購入できないマガジンとか考えると一部でしかないけどたくさん追うのは大変だし、キャパを超えそうだからやめておく。もう少しがんばってもいいけど、がんばらずにこのままでいいや。眠りがもうすぐそこまで来てるので寝ます。