2022年8月6日 これまで これから

広島の原爆の番組がやっていたのでひとつだけ見た。いつもリトルボーイとファットマンがどっちがどっちだかわからなくなる。どちらでもいいということはないのだろうけど、ここではあまり問題ではない。そんな感覚だからいつまでもどちらだったか覚えられないのだと思う。

現在89〜90歳の当時中学1年生だった人たちへのインタビューなどが特集されていた。中学2年生以上が縫製工場で働き、それより上の世代は戦地に行っていたそうで、中学1年生は建物疎開(延焼を防ぐための木造建築の破壊)の労働力として働いていたらしい。

ふと随分前に読んだ本を思い出した。いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社)という広島テレビが出している本。これも改めて見ると広島の中学1年生の話だ。覚えていなかったので思い出したのは単なる偶然だろう。内容としては重なっている部分もあったはずだ。この本には原爆で亡くなった学生たちが8時15分までをどう過ごしたかという話を1人ずつ書いていた。最後は「母親に見送られ学校に向かう〇〇。(どこそこ)で〇〇のため死亡。」のように締められていた記憶がある。読み進めるにつれ1人ずつ死んでいった。

インタビューを受ける高齢の生存者を見ていて、よくこんなインタビューを受けられるなと思った。強く焼き付いて離れない重大な事件の当事者・当事者の家族や友人・目撃者となり、80年近く経った今でも8月6日にむけてその記憶を掘り返していく。亡くした家族を忘れないようにするとつらかった出来事も忘れることができないと思うと、自分で抱えるだけでも大変なことのように思うのに、毎年「あれから〇年」とあちこちで特集が組まれる。起こったことの重大さはわかるが、インタビューを受ける人びとの精神状態を思うと勝手に心配してしまう。生き残っているのは強い人たちなのだろうな。それでも語ってくれる人たちの覚悟と優しさがあまりにはかり知れなくて見ているだけで苦しかった。
毎年毎年、思い出さざるを得ないような特集があちこちにある状況で生き続けるだけできっと大変なのに。社会全体でフラッシュバックを起こすようなことになっていないだろうか。

インタビューで「〇〇を作るときに大変だったこと」を聞いているのをたまに見かけるけれど、その大変だったことがその人を傷つけていた場合、傷をつついたり、かさぶたを剥がすようなことになっているのではないかと心配になる。「大変だった(つらかった)けど完成してよかった。でもできればあんな思いはもうしたくない。」と答えていたりする。それを何誌も繰り返したら、自分の意志とは大変だった(つらかった)ことと関係なく向き合うことになる。

例えばBUMP OF CHICKEN藤原基央がトラウマになっていると公言している天体観測、Title of mine、ロストマンの作詞に時間がかかったことについて何度も語っているのを聞くたびに、傷をえぐってしまっている気分になる。過去の発言を参照するから再びその話をしなくていいのにと申し訳なくなる。「これまでとこれからを語る」って書いてあると、トラウマえぐり系の質問が書かれていることがよくある。その手の質問を数年にわたり繰り返しているインタビュアーに対する失望もある。「前にもこんなこと言ってたよね〜」と他人だから割と軽く話せることを忘れているように思ってしまうけど、その発言が誌面に載せる情報の価値を生んでいる側面もあるのかもしれない。実際に繰り返された何度目かの発言のタイミングで初めて知ったこともいくつもあることを振り返ると、毎月発刊されて(恐らく・比較的)廃盤になりやすい雑誌という媒体の特性上仕方ないことなのかもしれないが、それによってインタビューを受けた側が苦しんでいたらどうしようと思う瞬間もある。遡って読むごとにその頻度は高くなっているように感じる。このことを知らない読者のためにこの情報を付加しておこう、という配慮なのかもしれない。

インタビューの誌面に、以前の発言を参照する箇所があっても面白いかもしれない。紙幅の許す限り、という感じにはなるだろうけど注のような形で挿入される情報がインタビューの隙間にあってもいい気がしてきた。それでもインタビュー受ける側の負担は減らないかもしれない。口に出すことは負担が大きいけれど、文字としてならあまり負担なく読むことができるような人にはいいのかもしれないが。

原爆の番組はもう何十年も制作されているはずだから、さまざまな人びとのインタビューが蓄積しているはずで、番組の全てが戦争当時 or 現在 とならなくてもいいはずなのに。

  • 戦争当時
  • 〇年後のインタビュー
  • 最近になってわかったこと/見つかったもの、最近になって語ろうと思うようになった人へのインタビュー

こういうのを織り交ぜたらいいのに。大変なのかな。手抜きだと思われたりする?「去年と同じ映像流しやがって❗️」みたいなクレームがつけられたりするのかなあ。勝手な想像しかできない。

原爆の番組のあとニュースを挟んで「おげんさんのサブスク堂」(出演:星野源松重豊)が始まった。こんなぐちゃぐちゃな気持ちのまままともに見られるのか分からなかったが、しばらく見ていたら純粋に楽しめた(と思う)。オールナイトニッポンを聞いていても、星野源の選曲にはハマらないことも多い。番組の最初のほうにかけていた曲にはあまりピンとこなかった。部屋を移ってからの選曲はもっと聞いてみたい。Clifford Brown & Max RoachCherokeeがよかった。

オールナイトニッポンでかけていた曲だと、UNDERTALEのSpider DanceToby Fox)とかイントロくそやべえのコーナーのMK5広末涼子)とかが印象に残っていて、それ以外だと細野晴臣関連の選曲には影響を受けた。そんなこともあり、自分はぜんぜんブラックミュージックに興味がないのだろうなと思っている。といいつつ、Clifford Brown & Max RoachCherokeeを気になっているのは何となくダブルスタンダードという感じだ。ブラックミュージックに興味ないのかも、と思い始めて何年も経っているし、いま聞いたら違って聞こえるかもしれない。Cherokeeのアルバムだけでも聞いてみたい。

番組内では星野源松重豊が自らの音楽のルーツについて語っていた。松重豊は60年代なかばくらいから70年代、80年代にかけて橋幸夫ポールマッカートニー(ウィングスセックスピストルズを1曲ずつ選曲していた。星野源は親から受けた影響について語っていて、先ほども挙げたClifford Brown & Max Roach荒井由実を挙げていた。荒井由実は親の車で出かけるときによくかかっていたらしく「うちといっしょだ!」と懐かしいような気持ちになった。星野源の親がちゃんと14番目の月をかけていたのに対し、私の親は非公式のベストアルバム(しかもDisc1紛失のためDisc2のみ)をかけていたが、ユーミンの曲と親の運転する車の距離の近さに近い感覚があって面白かった。黄昏がフロントグラスを染めるような時間に中央道を下ったことはないが、初めて中央道を通ったときには「ほんとに右に競馬場が見えたあとに左にビール工場が見える!」とかなり興奮した。

自分にとっての音楽のルーツらしいルーツはうまく言えないけれど、マツケンサンバ(2004)はいくらか自分に影響を与えている気がする。当時友達といっしょに毎日のように踊っていたような記憶がある。当時のNHK教育で放送されていたゆうがたクインテットをしばしば見ていたので、知らず知らずのうちに宮川彬良の音楽に触れていたらしい。

宮川彬良の曲だと運命とマンボNo.5を組み合わせたこの曲も好き。

ピアノを習っていたときに現代音楽(と呼んでいた不協和音・やや変拍子の曲)を好んで弾いていたことは今に繋がっている感覚もある。どこにルーツがあるんだろう、と思うけどSCHOOL OF LOCK!をはじめ、聞いてきたラジオと録画して見ていた深夜の音楽番組(音流とか)は外せないと思う。

最近あまりテレビの音楽番組見ていない。フジテレビのPARKは好きだったけど、最近もやっているのかどうか知らないな。知ってる番組も関ジャムくらいしか思いつかない。音流も未だにやっているはずだけどあまり見なくなってしまった。日本のインディーズシーンをざっくり知るにはいい番組だと思う。魁!ミュージックはいまもやってるのかな。いまテレビでやってる音楽番組って何があるんだろう。

そういえば昨日Sonny Boy見終わった。銀杏BOYZの未聴の曲をちゃんと聞くのが久しぶりだった。最初は江口寿史が原案なのかーへぇー、くらいに思っていたけど、そういえば君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命のジャケ、江口寿史だ!?忘れてた…峯田さんと江口さんが仲良しなのか、15年以上経た再会なのかとかもよくわかっていなかったけど、たぶんこれファン待望のやつだ!と思って銀杏好きのフォロワーたちのツイートを掘り返していたのだけど痕跡がぜんぜん見当たらない。そんなもんなのかなー。私も教えてもらうまで知らなかったけど、参加してるのが何となく知ってるバンドや知らないバンドばかりだったから見逃していたことにも納得感はあった。でも銀杏好きな人たちは!?検索機能がぶっ壊れているのならわかるけどうまい説明が思いつかない。ミュートワードにしてるのかも。