2023年3月8日 春

・引き続き、母をたずねて三千里を見ています。何話か見て、1日に摂取していい絶望の量を超えたので母をたずねて三千里を見るのをやめました。明日続きを見て、きっとまた気を落とします。

・久しぶりにジェノバの家が描写されて懐かしく感じました。マルコがジェノバを発つ直前にピエトロが言った「あと1ヶ月」を待っていたら本当にマルコとピエトロが揃ってアルゼンチンのお母さんを迎えに行けたのでしょうか。本当にそうなら、待っていればよかったのにと思ってしまいます。でもフォルゴーレ号で出会った人たちやそこで得た経験は、マルコにとってよいものだったと思います。けれど、僕にだってやればできるんだ!と思ってしまったことで一人前になろうとしすぎてしまうきらいはあると思います。やればできるのに子ども扱いされるせいでやらせてもらえないと思っているのではないでしょうか。

・第1話の絶望は平穏な日常に、第22話の絶望は希望に塗り替えられて、しばらく明るい日々が続いていたのに、第33話からの絶望は断続的に続きます。いまはこの絶望の最中です。いつまで続くのでしょうか。マルコはときどき哀しい顔をします。

 第1話の絶望は、お母さんがアルゼンチンに行ってしまうこと。第22話の絶望は、かあさんがブエノスアイレスにいないこと。第33話の絶望はかあさんがバイアブランカにいないこと。かあさんが生きているかもわからないこと。メレッリおじさんが夜逃げしていたと伝えられたときや、モレッティさんがマルコの母の死の可能性を示唆したときの落胆があったのに、それでも止まらないのは、どこかにいるはずの母を求める気持ちの強さからでしょうか。死の可能性に思い当たっても、それを子どものマルコに伝えるべきではなかったと思いますが、それはマルコの思い込みの強さを見ているからかもしれません。

・情報が速い世界に慣れているので何もかももどかしく感じます。手紙の不確実さを信じるしかない世界はうまく想像ができません。相手がどこにいるかわからないとやり取りができないことが当たり前の世界。遅くて散らばっているだけでとても不安になります。

・この前年に放送されていたフランダースの犬といい、さらに前年のアルプスの少女ハイジといい、子どもが大人の事情に振り回され、苦しみもがく姿を感動の物語と呼ぶことに違和感があります。これに涙するのではなく、ハイジやネロ、マルコのために怒るべきではないでしょうか。こんな消費許せないです。ハイジは親戚のおばさんに振り回され、ネロは金持ちの大人の思惑と猜疑心に振り回され、マルコは両親やおじさんに振り回されています(フィオリーナもお父さんであるペッピーノの劇団に振り回されている)。

・ハイジやネロは幼くして両親を亡くしているので、マルコに両親がいることが新鮮でした。子どもが無力であること、つらい境遇にある子どもについて、時間をかけて順を追って教えられている感覚です。

母をたずねて三千里には、事情を聞いてくれたり、手を差し伸べてくれる大人たちもあちこちにいます。そのことをマルコが思いだせるかはわかりませんが、思いだせていたら救いになると思います。フィオリーナのことを忘れていたこともあるのですぐには思いだせないかもしれません。

フランダースの犬は結末を知りながら見ましたが、母をたずねて三千里は結末を知りません。あらすじには「時には希望を失いかけるマルコだが…。」と書いてあるので、きっと最後にはマルコはお母さんに会えるのでしょう。何となくそう信じて見ていましたが、物語が進むにつれて、お母さんが生きていない結末が待っているような気もしてきました。なんでこんな世界名作劇場を見ているのでしょうか。この風見さんのツイートを見て、「そうだ、母をたずねて三千里を見よう」と思ったのでした。あー。

・次回予告はいつも同じBGMで、どんな内容の回も「お楽しみにね」と次回を待つように言われる。

・オープニングとエンディングのマルコの表情を見比べて、無垢でお母さんの胸の中にいるエンディングから覚悟が決まったオープニングに進んでいく物語を感じる。

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散歩していたら虫害で切られた(切られる予定)の木がよくあった。散歩のつまらなさをよく感じた。軽い服で出かけても寒くないのがいいですね。

春のつぼみが膨らむのに合わせて、気分が追いつめられていく。冬は生きていてもよかったけど、春を生きることは許されていない気がしてくる。後方視的な感覚。冬の寒さの閉じ込めて無視していた罪悪感をぜんぶ掘り起こして、土のにおいに乗せて風が運んでくるみたいな。