2022年2月2日 いずれ来る終わり

藤原基央とおじいちゃんの話、睡眠時間のとき(2004)のたしかROCKIN' ON JAPAN読んだときと、魔法の料理のとき(2010)のbridgeを読んだ今日、人が死ぬことが普段よりずっと怖くなって泣いた。

ずっと隣にいたり、感覚的に近くにいる人たちは 人肌くらいの温度をもっていて、自分と融けあって好きとか嫌いだと思うことも難しかったりする。(温度を感じられるのは、長期的にも短期的にもはじめのうちだけなんだと思う。)好きの延長にあるような安心のなかで、互いの温度があること自体にありがとうと思うような関係。その温かさに対してじゃなく、それが在ることについての感謝。

大事な人たちには長く生き続けてほしいけど、生きている間ずっと 誰がいつ死ぬかわからないことにうっすら怯え続けてる。藤原基央と秋田のおじいちゃんの関係とかエピソード読んだり聞いたりすると、その怯えがうっすらどころじゃなくなる。最後に「おやすみ」って言ったのがいつだったか、言葉交わしたのがいつだったか日常すぎて思い出せなくて また不安になる。大事なのに次から次へと忘れちゃっていくのがつらい。挨拶しそびれちゃったときとか「このままもう二度と会えなかったらどうしよう イヤだな」と毎日のように思う。他人っていつ死ぬかわからないし、その人との距離感によっては死んだことすら伝わってこないかもしれない。インターネットごしの、本名も知らない関係の人に伝わらない誰かの死の存在を想像して怖くなる。死んでほしくないけど、死んだならせめてちゃんとお別れだけでも言わせてほしい。もっと欲しがるなら死に際に、最後に、言葉を交わしたい。他人が大事になればなるほど、終わりまでその人といたいと思うようになる。大事な人との最後がいつだったか覚えていたい気持ちが強いんだと思う。

温度自体がわからなくなるほど存在していて当たり前になっている大事な人が近くにいると、何か起きたときに近くにいたのに何もできなかったと思ってしまうんだろうと思ってずっと不安でないといけない気がしてくる。大変だけど、ずっと不安でいておかないといつか後悔する日がくると思うと、ずっと不安でいるほうがマシだと思う。寝る前に交わす挨拶が2番目に怖い。1番怖いのは、挨拶をしそびれて寝る夜。大事になった人と会って「またね」「また今度」って別れたあとに、また会う約束をしてもしなくても、これが最後のお別れの挨拶かもしれないと思って離れ難い。電話を切るのも怖さがあまりない日とすごく強い日があって、すごく強い日は切ったあと不安や寂しさでいっぱいになる。切なさって呼んだほうがいいのかもしれない。

今日はたぶん無事過ごせたと思う。明日もそうだといいな、と思いながら不安でい続けるしかない。平和な場所に、いずれくるその終わりを感じてしまって勝手に不安がってるだけか。終わりまで一緒にいたいけど、終わりに触れてしまうのは怖い。終わりが来てしまうものをはじめられる自信がない。何も終わらないでほしいのに、そんなものないらしい。終わりのことを忘れられないと安心できない。他の人たちってどこまで安心してるんだろう。他の人たちだけでもすごく安心できてるといい、と思いたいけどそこまで余裕もない。