2022年3月7日 ピコーン!

こんにちは、ぴこんといいます。今日は自分の名前について書きます。

この名前を名乗りはじめたのがいつからだったか定かではないのだけど、ピコン/ピコーンなどの表記を経て、だいたい「ぴこん」たまに「ピコン」たまに半角などを行き来している。自認が「ぴこん」のことが多いけど、稀に「ピコン」のことがあるから、そのときだけ変えてる。カタカナを見つけたらレアです。

いつから名乗ってるか定かではないけど、少なくとも2017年のはじめごろにはTwitterでそう呼ばれてた形跡があるのでそのくらいかな。2015年とか2016年くらいには既にぴこんになってたような気もするけどどうだったかな。2016年には周りの人間に呼ばれてたような気もする…(友人知人にもぴこんと呼ばれている)

2016年にもらった寄せ書き見たら既にぴこんと呼ばれてた!ということは、少なくとも2016年には定着していたらしい…

ぴこんと名乗りはじめる前に、「〇〇(ピコーン!)」の時期を経ている。これは2014年だったはず。この年にTwitterをはじめ、enon kawatani(ピコーン!)の真似をした。回転とか@EARTHを名前に付けるみたいなかんじ。何となく由来を聞かれて、直接答えるのが恥ずかしくてもにゃもにゃとぼかしてしまうことも多いし、いまも書いていて恥ずかしさがある。そこからぴこんにたどり着くまでの順序は忘れた。名乗りはじめたら呼ばれるようになったのか、あだ名みたいに呼ばれるようになってから名乗るようになったのか…かなりぼんやりした経緯を経て今に至る。

‎ゲスの極み乙女。の「魅力がすごいよ」をApple Musicで

名刺代わりにするには膨大すぎる、好きな曲のプレイリストを作ろうとしている。5年くらい前にも似たようなことをしていたな。前回は人に頼まれた部分もあったけど今回は自発的に。今まで聴いてきた曲を、1曲単位だったりアルバム単位で振り返るなかで、ゲスの極み乙女。の魅力がすごいよを聞いていたら、Twitter始めた頃の記憶が蘇ってきた。台形が流行っていたことや、「えのんきゅうりくえ」のミーム化、初めて見るコピペを新鮮に思っていたり、ふぁぼって言葉がどういう意味か考えたりするような感覚があったことなどいろいろ。当時のツイートはもうほとんど残っていないけど、見返したくないな。見られないから消せもしないツイートたち。過去の自分の痕跡をひとつひとつ眺めたり消したりする。何もかも同じ場所に残り続けているのは見返しやすいけど見られやすくもあって恥ずかしさが消えない。過去の自分のこと自分だと思えないことが多い。記録すらないとその変化にも気がつけないから、過去の自分を否定することもありつつ記録を残していく。この日記もその一環。

2022年3月5日 No War 0305

No War0305を配信で観た。

No War 0305と題して、新宿南口にて戦争反対とウクライナ侵略によって傷ついた人たちのサポートを呼びかけます。 #NoWar0305 – GEZAN | official site.

戦争反対の意がないわけじゃないけど、うまく強く言えないから、どちらかというと演奏を観たくて再生していた。最初はカネコアヤノだった。よすがを出してからのカネコアヤノのよさが、悲しさと芯のある強さのなかにあってよかった。(M1 爛漫、M2 抱擁)
坂口恭平は、以前隕石たちだったか何かアルバムを聞いたことがある程度で、そのときも何となく歌詞に恥ずかしさを感じてしまってあまりよさを感じられていなかったけど今日の曲は好きだった。「海底の修羅」という石牟礼道子の詩に歌をつけた曲らしい。主観をぐるっとまわすみたいな曲。
踊ってばかりの国はギターが林さんじゃなかった!?なんか林さんがギター弾いてるように見えた。最近はそうなのかな、また踊ってで弾いてるのかも。Boyとかシャクナゲが入ってたアルバム以降ぜんぜん聴けていないから、それで幸せしか知らなかったけど、反戦の歌はそれまでにも歌ってきているから何というか自然だった。唄の命がいちばん反戦の歌だと思うけど、パキスタンが歌詞に出てくるから今回のステイトメントの中心のウクライナとロシアに向けて歌うには適さないと判断されたのかも。歌われている内容は広く反戦の意を含んでいるような気もするけど、歌詞が初っ端パキスタンで始まるから歌いにくいのかもな…東京も政治に対するアンチテーゼみたいな曲だから、反〇〇ではあるだろうけど反戦かどうかは微妙だ。それで幸せの選曲でよかったと思う。

「明日あなたに会う それで幸せ」

全感覚祭には踊ってばかりの国がいなくちゃ、というのもあるけど今回も出ていてよかったな。
原田郁子はさらさらと聞けてしまってあまり残っていないな。気持ちよかった。お昼のさらさら。七尾旅人は見た目を覚えていなかったし、声も忘れていたから「この人が七尾旅人か!」と新鮮に思った。もう誰も殺すなよ、の詞が繰り返されて、これは既に殺したことのある人にしか言えない言葉だと思った。たいていの人にとっては自分に向けられた歌ではないと感じると思う。こちら側とあちら側で分けて、自分をこちら側に置きながら聞く曲。反戦自体がそういう行為だけど、ある意味ではこちらの価値観の押し付けだからそこはうまくやらないと齟齬や乖離がたくさん起きてしまうんだろうと思う。この間、世論は強いから1人1人が思っていることが大事と言われたこと思い出していた。
三味線歪ませて弾いてる人たち、名前は何だったんだろう。切腹ピストルズというのか。あとよくわかっていなかったあれは…大友良英だったの!よくわからなかった…そんなに音量あげずに見ていたからテニスコーツのライブも発される言葉も聞き漏らす部分が多かった。
折坂悠太はもやもやの肯定をしていた。わからないままどこまでやれるのか、どこまでやっていいのかの見極めは難しい。そうだとしても考えずに黙っているよりは考えながら考えきれないまま黙っているほうがいいような気がするからそうしてる。
何となくクリミア併合とかをニュースなどで知っていたけど、ぜんぜん追ってこなかった情報に10日そこらで追いつけるはずがない。わからないなりに、6世紀くらいに遡ったり19世紀に遡ってあの地の歴史の概観を掴もうとしてる。どこがどのくらい繋がってる話なのかがうまくわからない。(M1 さびしさ、M2 炎)

www.cinra.net


部屋の片付けをした。結果として本当に少しだけしか進まず、強引にいろいろと掃除した。片付けに消費される体力がいつもいつもすごいから、まともに片付いていないのに本人はへとへとになっているという、周りにわかってもらおうとすると難しそうな状況に陥る。運良く説明しなくていい環境にいるのでそのままにしている。まともに自分の部屋の片付けもできない…

2022年3月1日 「手洗所」の謎

春らしくていいな。もう靴下を履かなくていい日が増えるんだろうな。自由だ。サンダルとか下駄みたいな履き物が好きだから夏の足元が好き。春は少しずつサンダルでも心地よく過ごせるようになるからうれしい。履いてると「下駄履いてるの?」と聞かれがちな履き物の名前がわからない。浴衣コーナーに売ってた下駄みたいなサンダルみたいな名前のわからない履き物…履きやすいからよく履くのに名前がわからないから他人に文字で説明するのが難しい。

多摩動物公園マレーバク千葉市動物公園に移るらしい。なんとなく千葉にはアフリカバクしかいなかったような記憶でいたけど、マレーバクはもともと千葉にもいるらしい。どこの動物園と記憶が混ざったんだろ、なんとなくシャボテン公園のような気がしてきた。シャボテン公園にはアフリカバクがいてマレーバクしかいないような気がする。

園内マップ|公園を楽しむ|伊豆シャボテン動物公園|伊豆シャボテン動物公園グループ

ブラジルバクがいてマレーバクがいないのか、シャボテン公園は。(番号でいうと32番)

出かけはじめ30分だけ雨が降っていた。大雨だったのに、すぐに止んで地面が濡れているだけになった。地面しか雨を知らない時間ってあるかもしれない。下を見て雨を知ることもあるんだろうな。

平井の本棚に行った。平井駅、はじめて降りた。夜の治安に特徴がありそうな散らかり方をしていた。数年前の姿も見てみたくなるような散らかり具合だった。

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平井駅前手洗所

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「手洗所」

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なんで「手洗所」表記なんだろう。

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公衆手洗所   🚻

神田 on Twitter: "名古屋の地下鉄、トイレの表記が「洗面所」だったのでよかった… "

名古屋には「洗面所」表記があると聞くけど、このバリエーションを網羅してる人がインターネットにいない(らしい)の意外だ。鉄道とか地図に詳しい人のなかにいそうなのに。

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西千葉駅内の案内も「手洗所」表記

総武線(各駅)沿線には散見されたりするのかも。電車苦手だから誰か調べてくれないかなと他力本願な気分でいる。でも西千葉のほうは正式じゃない看板という風でもあるから古くは「手洗所」表記が主だった可能性もあるかもしれない。

平井の本棚に話を戻す。すこし前に行った古本屋に比べると、自分との親和性は感じなかったからなかなか行くことはないかもしれないけど、三土たつおさんの『街角図鑑』が置いてあったり、高野秀行さんの『謎のアジア納豆』のサイン本があったり、哲学・社会学・福祉の本もいくつもあったり、詩や落語、芸術関連の本、何十年も前の漫画もたくさん置いてあったり、豊かな古本屋さんだと思った。高野文子の『おともだち』を買うか迷ったけど買わなかった。外箱の状態があまりよくなかったのに加えて、すごくいい出会いをした『絶対安全剃刀』よりも好きになれる自信がなかった。読んだあとにあっちのほうが好きだ、と思ってしまうのが怖くて買わなかった。もったいないことをしたかもしれない。いまはまだ、そのもったいなさはわからない。『絶対安全剃刀』も古本屋で買った。高野文子もそのときに知った。これは買わなければいけない本だと思ってほとんど衝動的に買った。(たしか同じときに萩原朔太郎の『月に吠える』のレプリカも買えたからか、本屋を出るときのどきどきした気持ちがずっと残ってる)その最初のふれ方も含めて輝いているから他の高野文子作品を買うときに躊躇ってしまう。絶対安全剃刀を何回でも読み返したらいいか。本棚にはあるんだし。

火事に気をつけたい!火事で形として集めてきたすべてが燃えるのが怖い。冬が終わっても続く恐怖だ。それでも紙じゃないとうまく管理できない。紙すらうまく管理できてるとは言い難いけど、電子化するとどこにあるか見えなくてすぐ見失うから形があるほうがいい。いつか失われるとしても形あるものが好き。目の前にあるものの優先順位を超えられるような形にならないものは少ない。たくさんもっておけないし、消えてもわからなかったりする。形がないものは少ししか持てない。

2022年2月28日 春の夜

春を感じる日中だった。当然のように身体が春だと思って動いていた。部屋に入ってくる風がもう春だ。外に吹く風はまだ、時間帯にもよるけど冷たくてすべてが春になったわけじゃないけど春が訪れているのだなあと感じた。明日から3月だから、というのもあるのかも。これから4月にかけて、うまく掴めない春を今年もまた掴めないと思うんだろうな。

萩原朔太郎が「春がみつちりとふくれてしまつた」とか「あいにくうしろには春がわらつて居た」とか表現してる春も、尾崎放哉が「病いへずうつうつとして春くるる」と詠んでいるのも好き。折坂悠太の「春先迎え小さく死ぬれば」という表現もいいなあと思う。春は冬にかかっていた魔法が溶けていくような感覚がある。クリスマスに向けて強くなる魔法の感覚は、雪の景色や澄んだ空に引き継がれて冬に残り続ける。暖かくなり始めた空気はそれらをゆっくりと溶かす。なんか今日はその溶けはじめみたいな空気の日だった。

スノースマイルで「冬が寒くって本当に良かった」と歌いながら、後のインタビューやライブのMCで「冬が寒くて本当につらい」と語る藤くんが好き。他にも、ポンツカで歌詞に言及するときは大抵好きなんじゃないかと思う。先週のポンツカ(2022年3月6日まで聞ける インターネットラジオ再生|bayfm78)でコンビニのコピー機に置き忘れたダイヤモンドの歌詞が書いてあるノートのこと「ポエムのノートだぜ」と呼んでいたのも、虹を待つ人を起床時のアラームにしてるお便りが来たときは「眠れなかった体にじゃねえよってならないかな」って心配してたのも、ひとりごとへの感想お便り(自分より考えすぎな人がいて安心した)に対して「いやいや至ってまともなつもりなんですけどねえ」と付け加えて返していたのもどれも好き。

旅のラジオ / #038「マットにうんこを配置して、お酒をめちゃめちゃに飲むゲーム」 - YouTube

1ヶ月遅れで旅のラジオを聞いているのだけど、この回すごく面白かった。ウクライナのうんちのフィギュアとか、コロンビアのうんちを避けるボードゲームの話が聞ける。うんちを避けるボードゲームすごすぎる!何回も聞き返したいなこの回。

2022年2月24日 膨張する本棚

電車に揺られながらニュースを見ていた。わからない。情報が多すぎる。正誤も判別が難しい。戦争映画だってたくさんあるし、高い技術で加工されるとどう判別するのか。例えば2001年の同時多発テロで飛行機はビルに突っ込んでいなかったと主張する界隈があるけれど、映像でしか知らないことに対して私が言えることは何もないと思う。自分が正しいと思っていることは、多くの人がそうだと言うから恐らくそうなんだろう と思っているだけだと感じる。どちらを信じるのが妥当かを、ある程度多数決で決めるような感覚。

ガルパンの映画を見に行ったときに流れていた実写の戦争映画の予告編には、痛みや血があり、恐怖があった。ガルパンでは戦車から身を乗り出してもなぜか死なない(し、怪我もしない)ことになっているせいで兵器に対する危機感が薄れていたことに気づいた。アニメと実写の受け取り方の差もあったりするのかもしれない。どちらも作品としてはフィクションだけど、大きな嘘に取り込まれたあとは現実のことも忘れられるんだと思う。いつか教科書に載るんだろうな、という日。現実味はない。2022年って今年じゃないみたいだ。

たくさんの情報で頭をいっぱいにしていたら、降りる駅を間違えた。初めて行く目的地は、事前におおよその位置を調べてあったから、適当に歩いた。途中、目を惹く古本屋があったから入ると、探していた本が何冊もあった!気分の高揚に任せて本を買った。気持ちがいい。読めるかわからないし、本棚に入るかすらわからないけどいい買い物をした。また行きたい本屋になった。ただ、通路が狭いから本を1冊1冊見るのが難しい。たくさん買うことを想定して大きめのリュックで行ったから余計狭かった。何冊も買ったからリュックで行ってよかった。何の収穫もないよりはいい。

買った本→ちびまる子ちゃん【12】、インド放浪(藤原新也)、CUT、H、ROCKIN' ON JAPAN、日本軍歌名曲百選、アフターダークねじまき鳥クロニクル 第3部 ほか

ロッキングオンが出してる雑誌がいくつあるのかわからない。

2022年2月22日 図書室の床

猫の日を初めて知ったのは小学校の図書室だった。図書室の先生がやっていた読み聞かせの導入に2月22日(にゃ にゃ にゃ)を教えてもらった。上履きを脱ぐことになってる床に座っていた。

その床ではいろいろなことがあった。放課後にたくさんの人で賑わっていたとき、腕相撲大会が行われた。小学校の頃はずっと腕相撲が強かったから、滅多に負けなかったし年上の男子に勝てることもあった。だから1つ年下の大山くんに負けたことを印象深く覚えている。

防犯ブザーの電池が切れていたことに気付いたのもその床だった。栓が抜けているのに音が出ていなかった。そのときのぼーっとしていた感覚と騒がしい室内のことは何となく覚えている。

ねじまき鳥クロニクル」を読み始めた。クロニクルって時系列順に進む話だということも知らなかったけれど、これはクロニクルなのに時系列じゃないらしい。「村上春樹河合隼雄に会いに行く」に井戸のことが出てきて、私も掘りたいと思った。井戸のことをわかりたい。メーデーで歌われていた深く潜ることもわかりたい。いまのところそのふたつを結びつけて考えている。まだ読み始めたばかりだけど猫がでてきた。猫の日に猫が出てくる小説を読んでると思うことで逸れる意識があった。猫探し、海辺のカフカのナカタさんを思い出す。ねこねこねここねこ…

 

藤原基央「「にゃ」は28だろ!」

2022年2月21日 音楽・ラジオ・散歩

久しぶりにRacer XのTechnical Difficultiesを聴いた🤘これの冒頭数秒だけを練習していた時期があった。速いうえに難しくて途中までしかやらないうちにやめた。いつやめたかすら覚えていないくらい何となくやめた。

これ聴いてたらテクニカルな音が聴きたくなってDream TheaterのPanic AttackとかJudas PriestPainkillerを聴いた。これらを聞きたいタイミングは似てる。手数の多いドラムだったり、音の粒がたくさんあって探しきれないのがたのしい。演奏するときはメタルなどのほうが性に合うような気がする。ただ単に自分には弾きやすかっただけのような気もする。楽をした結果、弾きたいと思えたのがそういうのだったのかな。たぶん楽をしたせいでいまだに身についていない。これからだってできると思いながら、だらだらと放置したりしている。弾けるような心持ちになれないのが大きい。こうなるまでの期間があったはずなのに、どうしてこうなったのかがなかなか思い出せない。また弾けるようになれたらいいな。少しだけやったボウイングもたのしかった。結局ポシャったから人前では披露しなかったけど、1弦と6弦の世界が広がるのが面白かった。

https://youtu.be/xuCvJOwr3Ys?t=21

ボウイングとはこういうやつ(0:21〜)

あと久しぶりにアイドルも聴いた。自分のなかでいちばんのアイドルは山口百恵なのだけど、割とここ数年くらいのアイドルだとでんぱ組とかゆるめるモとかLADYBABY黒宮れい金子理江の頃)を少しずつ聞いている。

メタル→手数の多いドラム→プレシャスサマー(でんぱ組)→アイドル

ロック大陸漫遊記をほとんど聞き逃さず聞けている。草野マサムネから受ける影響はたのしい。放送が55分だから、聞く時間を設けないとradikoの仕様では難しかったりするけど、2周したときの曲の馴染み方も好き。タイムフリーがなかった頃のラジオって、リアルタイム以外だと録音して聞くしかなかったから、聞きやすくなってるはずだけど、スマホアプリ版のradikoもうすこし使いやすくなってほしい。10秒戻す機能つけられないのかな。広告との兼ね合いとかで難しかったりするのかもしれない。

ここに日記を書けない日は、ここで日記を書いたりしている。すごく短く簡略な日記。まだ招待生きてるね。

毎日を振り返ると書けないことが多い。きょうは散歩した。知ってるような知らない道がまだまだたくさんあって、たのしめる余地があると感じる。実際にたのしいかは歩いてみるまでわからない。
途中で永井均の本を1冊買った。(『子どものための哲学対話』)読むまで読むかわからない。