2021年12月30日 こいつまたバンプの話してる

ここ数日、部屋を片付けなければ、と思って大掃除。片付けなければならないものたちをひと通り出したあたりで飽きたのか力尽きたのか進められなくなって今に至る。普段のほうがよっぽど片付いている。本が山になっている。このまま年越さないようにだけ、すこしだけでいいから体裁を整えたい。すっかり忘れた場所から、行方不明だと思っていたCDが数十枚出てきたから新しく収納し直したいし、それらを一番奥に収納していたせいで他の取り出したものたちが仕舞えなくなっているんだ。

なんというか今になってようやくきちんとバンプを聴けているような感覚がある。歌詞を改めて見たり、買うだけ買って読めていなかったインタビューとか、読んだけど忘れていたインタビューとか、新しく買った雑誌のインタビューとか。とにかく文字として残された藤原基央の痕跡を辿って、また聴いて、の繰り返しをしている。そのなかで新しく見えてくる面がたくさん、本当にたくさんあって、いままでこれもわからずに聴いていたのか、10年近く好きでいるはずの音楽なのになんとなくただ好きなだけだったように感じてくる。でも中学の頃に友達に貸してもらったベスト盤を久しぶりに再生したら、中学のときに聴いていたバンプの質感があったり、忘れずに残っているものもあった。ベスト盤を貸してくれた友達と、今は一緒にSilver Jubileeに行くために応募しては落ち続けている。ポンツカとかで「タイミングが合ったらライブにも来てね」くらい簡単に言うけどチケットが取れないと予定空けても行けないんだよ!!ライブに行きたい。当たらなかったり、好きな気持ちが遠ざかっていたりしていたせいでBFLY以来5年以上行けていない。ずっっと好きな人が行けるのがいちばんだ。何となくアリアあたりから配信で小出しになるようなリリースについて行くのが難しかった(ようやく最近あとから追えた)ような自分に当たっても仕方ないのかもしれない。けど、それでも今行きたいんだから行かせてよ〜(駄々)行きたいぜ。行きたいよ。諦めたくないよ〜うわあ〜行かせてくれ〜お願いします!!!年末年始プレオーダーだっけ、名前忘れちゃったけど今応募してるやつ当たってくれ!!!!今度こそ!頼む!!

新しく見えてくる側面は歌詞にも、曲作りの背景にもある。たぶん歌詞をちゃんと読んで理解していなかったから、Stage of the groundの「君が立つ 地面はホラ 360度 全て道なんだ」のところを「全てに地面だ」だと思ってたり、オンリーロンリーグローリーで「息絶えた 心を撫でた 殺したのは他ならぬ僕だ」って歌ってたと初めて知ったり、ちゃんと聴けていなかったんだと実感することが多すぎる。初期の英語詞はまだ聞こえてこない。覚えていたのに忘れちゃってたのかもしれないけどね。ポンツカも聞けてない時期があったり、聞き逃してる回で穴だらけ。やさしいやさしごんの発言も記憶にない。数年前のラジオ、それも数回しか聞いていないラジオのことなんか覚えてなくて当然のような気もするけど、言われてもわからないくらいだと悲しい。欲張りだから何もかも覚えていたい。忘れまくっていて悲しい。

抱いていた印象が変わったの、ロストマンの9ヶ月の制作期間かもしれない。2015年5月号のMUSICAで「歌詞が9ヶ月かけなかったこと」「また書けない時期が来るかもしれないこと」への怖さが語られていた印象だったのだけど、リリースのタイミングあたりで受けた2003年3月号のBREaTHでは「時間かけてじっくり作れた」と語られているように感じた。ロストマンのあとにスノースマイルができたけど、ロストマンスノースマイルは一緒にシングルにすべきじゃないし、せっかくだからスノースマイルを冬にリリースしたくて、ロストマンは寝かせておいた、その時間かけてよかったと思う。くらい言ってるように見えた。藤くんのなかでその時間の受け止め方が変わったのか、どちらも本当なのかわからないけど、リリース当時のインタビュー読んでロストマンへの印象が変わったし、10年以上経ったインタビューと読み比べてロストマン製作時の藤原基央への印象も変わった。

バンプについての記事で印象に残ってるのが2つある。1つはオーイェーアハーンを数えた記事で、もう1つは藤原基央は野生のブッダだと言っていた記事。たぶんこれこれ。まだ野生のブッダにウケている。面白い。何と言うか、藤原基央の書く歌詞は(いま「ふ」って打ったら「藤原基央の書く歌詞は」ってでてきた…なぜ…ま、いいや、藤原基央の書く歌詞は)歌う前提みたいなところがあるから、文字で読むだけだと感情がやってこない感覚と気恥ずかしさみたいなものがある。歌詞カードだと歌詞同士の並びが整っているけど、それを抜き出してくると途端に恥ずかしくなる。いまなんとか歌詞の共通項を書きたくてちょこちょこ書いているのだけど、ずっと恥ずかしい。熱がぼんやりしたまま書き終わらせないと 書けなくなってそのまま終わっちゃうんだろう、という予感があるから何とか気恥ずかしさに勝って書きたい。書いて出したいんだ。あーはずかしい。藤原基央の歌詞に自分が見ているものを書いて人に見せるのは、弱い部分を晒すような感覚がある。なるべく自分を排して、歌詞そのものを抽出して歌詞が描いてる変わらないものを書こうとしているのに、そこにはどうしても自分の視点が介在してしまう。自己紹介みたいにどうしてもなっちゃってはずかしい。なんとなくしか聴けていなかったように思ったとはいえ、ずっとそばには在ったから。ずっとそこにあるのに気づいていなかったの!ハルジオンみたいだね!はずかしい、はずかしい…

共通した単語が出てくるのは、近い時期に制作された曲であることが多いから互いに影響し合ってるんだろうなと思う。時を超えて共通した語が使われているときには、変わらなさを顕著に感じる。紅白歌合戦たのしみだ。天体観測(2001)の進化を、発売当時のMVとか 今に至るまでのライブ映像、ライブ音源から何となく感じているけれど いまのバンプの天体観測が聴けるのが心の底から楽しみ。わくわくしたまま眠るよ!おやすみなさい。部屋を片付けなくちゃならないんだった!

2021年12月27日 できないできないできないっ

服を買うのが苦手だ。知らない海で溺れそうになったあとみたいな疲れかたをする。店を出てへなへなと座り込みたくなる。たまに耐えられなくなって店内でしゃがんでじっとしている。でも、自分でいいなと思える服を買いたい。ハードルはまだある。服屋が疲れるだけに終わらず、自分の体型のこともよくわかっていない。鏡をじーーっと見ても自分がよくわからない。自分を見分けることはできるけど自分の客観視ができていない感覚がある。体型の分類とか、似合う色がわかるらしい「ベ」とか、流行のいろいろとかほとんど何もわからない。服売ってるところ、たくさんありすぎる。選択肢の絞り方もよくわからない。手当たり次第行くにもひとつひとつ疲れちゃうし…(冒頭に戻る)

寒くなってきたから暖かい服買いたいのに、買いたい服の種類がわからない。上着。トラックジャケットって何なんだ。トラック…?わからない。誰か詳しい人に連れられて服屋回ってみたい。私より詳しければいいから随分とハードル低いけど一緒に行ってくれる人、いないかな〜 誘ったら行ってくれる人。

車を運転するのも苦手。世界が全部意味になって疲れる。ルールに則って攻略すべき世界になる。まだ事故を起こしたことない(!)から、ぶつかる感覚や距離感を知らない。ちゃんと、かもしれない運転してる。事故を起こしていない今までは「いつかぶつかるかもしれない」と思っていて、もしこれから事故を起こすことがあったら、その「かもしれなさ」が崩れてしまうだけだから安寧がどこにもない。みんな平気な顔して運転してるのすごい。

この2つ見比べてみるとわからなさで疲れるのが苦手なのかもしれない。新しいところを散歩するのが好きなこととは対立してる。苦手さを感じていないだけで疲れてるのかもしれない。好きだから疲れへの意識が薄くなっていたり、歩く疲れと一緒になってよくわからなくなってるかもしれない。

できないこと、何がどうできないのかちゃんとわかっておきたい。できるようになれればたぶんいいけど、できるようにならなくてもわかることはたぶん大事だと思う。自分を見つめて、弱点に向き合うみたいな意味。

(書きながら寝てたので朝)

2021年12月26日 もの・おと・ひかり

物音光をアーカイブぎりぎりで見た。オモコロの人たちの、書籍出版記念イベントを見て物性物理の教科書とかノート引っ張り出してくることになるとは思わなかった。高校でやった物理基礎、大学(通ってるのは文系の学部)で履修した物性物理くらいの知識しかなかったから、その間にどんな知識があって前提とされているのかわかっていなかったんだな~とわかった。光の波と粒の話は座学でだけ聞いていたから雰囲気だけ何となくわかった気になれて気持ちよかった。可視光が400~700nmくらいなこと、単位がなんだったか含め、何となくしか把握していなかったから、リックェさんから細かい数字がぱっとでてきた瞬間に、知識の具体さにどきっとした。またすぐその数字は忘れてしまった。いま調べ直して書いているので、単位だけでも覚えておこうと思う。

サイゼのメニューで占う『12サイゼ占術』を創造った | オモコロ

イベントに出てきたこの記事の「12サイゼ占術」やろ。

やった。西洋占星術がさっぱりわかっていないからサイゼリアン・チャートとかさっぱりわからない(し、眠たい)けどかつての自分見てるみたいな感覚になった。わからん。あとで。

最近はオモコロチャンネルをぜんぜん見られていないな。12月入ってからまだ数本しか見ていない。週3更新は全部追ってくり返し見るのだけでも大変だ。音声放送もモンナイフィーバーも数週溜まってる。ラジオだって動画だってくり返したい。毎週毎週たくさん新しいものが生まれるのに、過去の好きなものもまた繰り返したいからすぐに消費のなかで詰む。詰む→積む。積読もこないだ数えただけで100冊くらいあったんだっけ…200冊か…?いや、そんなにないはず。100冊だ。たぶん100冊ちょっと。100冊ちょっとあるの?!積んでるだけで?!買いたいな~と呑気に思っている本もまだまだあるのに。読みはじめられたのに読み終わってない本たち(ブクログだと「いま読んでる」に分類せざるをえない本たち)だけでたくさんある。どれから読んだらいいですか?物音光関連だとリックェさんが変えるラジオで言及してた『虐殺器官』がちょうど棚にあったから読み始めたのにそれも途中で放ってあるし、岡田さん含む田の会で紹介されていた本も読みかけの本だらけだ。それなのにこないだ川上未映子の子育てエッセイの本(名前忘れちゃった 調べる気も起きない)本屋で見かけて買った。

大学が近くにある古本屋の品揃えに興味がある。きっと「知」が集まってくるんだろうなあ、と適当な推測があって まだ少ないサンプルから判断するに割とその傾向はあると言えそう。いろんな知の流れを見たい。その前に本を読みなさい(自戒)読む順番を決めないとなあ。文字自体は読んでるはずだから、文字とか文章が読めないわけじゃないけど読む習慣になっていないのがなぜなのか自分でもよくわからない。習慣に組み込めていない。新しく習慣にするのは難しいらしいけど、ここ数週にはロック大陸漫遊記だってまた聞く習慣(らしき何か)が戻ってきているし、習慣を戻すだけならきっともっと簡単にできるはずなんだろう。と思いつつ、最近オモコロチャンネル見てなかったり読んでいない特集があったりするのは取り戻した習慣の代わりになくなっていったものなのかもしれない。自分がもっている幅、小さくて狭いのかもしれない。それでやっていくしかないんだろうけど。かつてが現在に変わっていったように現在も未来に変わっていってしまう!みたいな適当なこと言っておわりにします。(おわり)

2021年12月18日

一日がもう終わろうとしているあたりで気がついた。今日着て街をうろうろしていた服、まえうしろになってる。夜になってからようやく苦しいような気がしてきた。感覚が遅すぎる。もっとちゃんとしてほしい。でもまあ前も後ろも無地だったし、たぶん大丈夫だ。

初めて行く場所にいるとき、毎日新しい場所に行っているというコジコジのことを思い出す。自分にとって初めての場所だと、その地にとって自分は部外者になる。非日常のなかで部外者の感覚を感じている最中も、思い出すときもわくわくがある。自分のことを部外者だと感じるのは、部内と部外を対比させて考えているからなんだろうな。自分が自分であり、他人が他人であるだけじゃなく、自分が内側にいるか外側にいるか、他人が内側にいるか外側にいるかがその感覚にはくっついちゃってる。たぶんコジコジには内側とか外側の意識がないと思う。ここで「部」って呼んでるまとまりへの意識もないか、あっても重要なものと考えていない。あるのは自分(コジコジ)と他人だけ。だからこそ先生にもクラスメイトにも地面のミミズや海のタコにも、物知りじいさんや長生きばあさんにも同じように接することができているんだと思う。私とコジコジでは初めて行く場所への感覚が違う。属性にまみれて生きてるから仕方ないか、私は私ではあるけど性別も年齢もあるし大事なものとそうでないものを区別して生きてるからどうしてもコジコジにはなれないな…なりたかったな…いまからなろうとしたって不可逆な部分が多すぎる。

献血したいな。新宿に新しくでかい献血ルームができたらしい。献血ってできてもできなくてもいろいろもらえるけど、中本のカップ麺貰ったのがいちばん献血のイメージと遠くて面白かった。献血のなかでも成分献血への憧れがある。「血を抜いて、抜いた血から必要な成分だけ取り出して、抜いた血を身体に戻す」というような工程になっているらしく、「血を戻す」工程をやってみたい。前に一度やってみたら、失神こそしなかったけど意識がぼんやりしたので断念した。体調も万全といえるほどじゃなかった(千前くらいだった)から、そのせいもあると思うけど悔しいからいつかやりたい。献血の成功率が低くて悲しい。体重が50kgに満たない小さな人間だから200mLのほうしか出来ない。この間会ったでかくて強そうな体の救急救命士が「我々のようなでかい人間が献血をするので安心してください」と言ってたの頼もしかったな。それはそうと血は足りていないらしいのでできることならやりたい。できれば成分献血を。成分献血はただやりたいだけじゃなくて、次回までに空けなきゃいけない間隔が短かったり、協力しやすいようになってるから成分献血ができたらきっといいんだと思う。400mLができないならなおのこと。でも2回連続で失神とかそういう類の症状が出ると、もう二度と献血しちゃいけなくなるらしいので次回は慎重に200mLからやってみたい。冬は寒いし、血も自分の分だけで大変だろうから暖かくなったら行こうかな、5月とか。

知らない道を往復すると、なんとなくそのあたりを立体的に把握できる。道の見え方は道の端歩いてるか真ん中寄り歩いてるかにもよる。進む方向も、変えると見え方がかなり変わる。今日初めて行った商店街は、中央から路地がところどころに入り込んでいたから、特に見え方の変化が大きかった。世界は上下左右にも前後にも広がっているのに、目は2つしかなくて、視野は限られてくるしたくさん見落としたりもする。何回行ってもまったく気が付かなかったりすることすらある。初めての場所だと、何も知らない広がりをもつ世界を、かなり能力的な限界のある知覚でキャッチすることになる。そこで、まったく知らない道を行ったり来たり往復するとだんだん既知と未知が混ざるような感覚になってくる。さっき見た店の別の店舗がある、とか 道に共通して刺さってるポールとか電柱とか街灯がだんだん見えるようになってくる。朝から歩き回ることは少ないけど、朝から昼、昼から夕方、夕方から夜にかけて変化する景色のなかで、だんだんと知っている道になっていく。店が閉店時間迎えたり、夕方から開いてる店の灯りがついたり、道が恐らく毎日とか毎週繰り返してる時間のことを少しだけ自分も知ることになる。この、知らなかった街をだんだんと知る感覚が好き。他人の日常に片鱗だけ触れられたような気になるのが好き。ちょっとだけ知ってる街を増やしていきたい。

あまり計画なく家の外に出られるのがうれしい。家の内側も好きだけど、外に行ける内側じゃないとただ停滞してるだけになりがちで、やれることがもっぱらやりたいことだけになってよくないということが家から出にくい期間を経て痛切にわかった。変化への適応が間に合ってなかっただけの可能性もあるけど、すぐに「いまできることをやろう」「できないなら工夫しよう」と切り替えることができていなかった事実は過去に、後ろ見るとすぐそこにある。たぶんもっと濃くできたはずの2年くらいだったのに、ほとんど水みたいな薄さになってて 感じていた感覚も自分からかなり抜け落ちてしまっている。たしかに在ったはずなのに気がついたらどこに在ったのかわからなくなった。たぶん「できることをやる」とか「工夫する」とかは攻めの姿勢でいられた人たちの過ごし方で、取り上げられがちなのもたぶんそちらが多い。少なくとも私が目にしているものだと「こういう工夫をしました」ばかり取り上げられているように感じる。それに対して自分は、攻め以前とか守りみたいなところにいる気がする。工夫をできた人たちが適応の段階を踏んでいたのか知らないけど、たぶんそれなしには攻められないと思うから 2年の間に対応を変える適応とか順応があったんじゃないかと思ってる。臨機応変が苦手だと思ってきたけど、2年かけてその苦手さが顕著に現れてきたみたいに思う。これからどうなるかわからないのはいつだってそうだけど、それが強くあるから難しい。たぶんみんなも難しいから「みんなそうだよ」で終わっちゃってどうしようもないな。

すがもんかわいい

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2021年12月11日 点と点で線

AとBがそれぞれ点だとすると、線分ABになるのが好きで こじつけのような解釈で線にしたり、自然に線になっていたりするのを楽しんでいる。情報でも、地図でもなんでもそう。地図は苦手だけど、苦手なりに間違えて歩いた痕跡の蓄積はそれ自体が線になっているから、歩く歩くテクテクと(け〜も〜の〜み〜ち〜「ミミクリーズ奇妙礼太郎)するのはそれだけで楽しい。以前、新宿から原宿まで歩いてみたことがあったから、今日は代々木から原宿まで歩いてみることにした。(前回のルート:新宿→代々木→原宿)代々木の北口、西口などどれが正しいかわからず、調べず適当に降りたら見覚えのない場所だった。駅の表示を頼りに見覚えのある場所へ出ると、そのまますんなり原宿にたどり着けた。ほとんど一本道だから簡単だ。難しくないけど、覚えていたことが嬉しい。今度からも間違えずに行けそうだ。

原宿へは中島みつさんの展示を見るために行った。場所はデザインフェスタギャラリー。年に1〜2回くらい行く場所になってるな。毎年あるフクザワさんの個展とかうろ覚えのトラ展とか。ほかの用事で原宿行ったときも時間あればつい寄る。f:id:eudoftheworld:20211212010025j:plain

外から見てもかっこいい!めちゃ人が多くなりはじめるタイミングで行っちゃったから、邪魔になってないか気になった。邪魔だったらごめんね。原画をその場で売り捌いていたから、初日に来たかった…昨日は夕方まで手が離せなくて余裕がなかったから今日でよかったとも言えるんだけど、写真でしか見られなかった絵たち〜君たちはどこにいたんだ〜!f:id:eudoftheworld:20211212011102j:plain

この絵買った。夢の中みたいでかわいい。枕元の鮮やかさが増えてうれしいな。いい夢を見たい。これにするかすごくすごく悩んだけどこれにしてよかったな。

直接見て、会って感想を言えるの(聞いてくれるの!)ありがたい。時間ぎりぎりまでいさせてとらった。インターネットだけでも見られるけど、直接見るともっとよかった。明日というかもはや今日12/12までだそう。興味ある人はぜひ!ノートに描かれたたくさんの絵たちがすごくよかった…

竹下通りには三色旗があると聞いたことがあるけど、今日もまた見つけられませんでした。いつか見つけたい。

2021年12月6日 ぼくの失敗

あらゆる施設が予約!予約して!!何月何日!何時に来て!それ以外は入れないよ!と言ってるのが窮屈でずっと嫌だ。去年の秋に上野動物園に行ったとき、予約より1時間くらい遅刻して行ったら「次は時間通り来てくださいね」と軽く注意を受けた。軽い叱責を受けるようなミスばかりしてるな、たまに「まあいいよ」「しょうがない、今回だけね」と許してもらえて、システムの抜け穴を作ってもらってどうにかなることがあるけど、たまに だな。人間がどうにかしてる訳じゃない部分が多いから、人間が許したくてもシステムが許してくれないことがある。狭間に落ちたときのどうしようもなさよ。

基本的に立てた予定から4時間くらい遅れて過ごしている。これが、他人が関わってくると5分遅れくらいになる。友人たちにはちょっと遅刻する人、くらいの認識をされているか あるいは友人のほうがもっと遅れてくるからかすんで遅れている事実が見えなくなってるかのどちらかだろう。お互い「ごめん!遅れる!!」と言い合って、本当に遅れてくるのは用意されていた結末みたいで面白い。

今日のところは1時間遅れくらいで済んだ。一人で行動する日だったから自分のなかでは遅れが少ないほうなのだけど、行く予定を立てていた図書館は入館に時間制限があり、なかなかぎりぎりになってしまった。そこからさまざまなルールと自分のミスでやりたかったことに次々失敗した。

そもそもよく迷子になる。初めて歩くような道も何となくで進んでしまうせいだと思う。地図見るのも下手だから、見なくてもいいやとなってしまって(よくない)そのまま迷子になる。千代田区にいて、千代田区内で移動するつもりだった。それなのに気がついたら中央区にいて、迷子になりながら移動していたら、港区にいた。地名を確認できた範囲でこれだから、ほかの区にも突入していたかもしれない。隣接する区がわからないからそれもわからないけれど。もう空も暗くなって 迷子になりながら、合ってるかわからない見当をつけつつ歩いていたら突然首相官邸前があった。いままで見た首相官邸のなかでいちばん面白かった。

たくさん警察官(と思しき人々)がいた。制服とかバッジとかわからないから推測の域を出ない推定警察官たちだ。推定警察官たちのことを観察しながら歩いたら、彼らは皆同じ靴を履いていた。ベルトがついているようなやつ。あれは支給されたりするものなんだろうか…ものすごく足の大きな警察官は特注だったりするのかな。みんな同じような格好をしているの、間違い探しみたいで見るのがたのしい。

警察官が乗る自転車に憧れがある。赤く光る棒を挿す部分がついてる自転車。それも左右で1本ずつ挿せるようになってるやつ。あれに乗ってみたい。その辺で拾った棒とか挿したい。何も挿さなくてもたぶんあれに乗れたらたのしいと思う。警察官はいいな、あの自転車に乗れて。と、ここ2年くらいずっと思ってる。それなのに、今日見かけた警察官(推定)の自転車にはそのパイプがついていなかった。折りたたみ自転車だとつけられないのかもしれない。あの警察官にはなりたくない。

インターメディアテクという博物館に行ってみたい。これも2年くらいずっと思ってる。今日は歩いていける距離まで行ったのに、休館だった。途中まで歩いて気付いた。それなら、と無印良品を目指した。(まだ入館できない時間だったこともある)そうして地図に頼りながら銀座の無印良品にたどり着いた。でかい。6階ぶち抜きで無印良品だった。ホテルすらある。こないだオモコロチャンネルでやってた無印良品の回のことを思い出しながら、図書館に入るときに使いたい透明なカバンを買いたかった。ひと通り見て回ったあと、どうやらそれはないらしいことがわかった。聞いたところ、随分と前に生産終了してたらしい。とりあえず持ってたボトルに水を汲んで、無印良品をあとにした。(無印のボトルじゃなくても水汲んでいいらしい!)

無印良品を出ると外はもうほとんど真っ暗に近かった。夜になっても街灯やビカビカの看板や掲示板、電飾がたくさんあるから、真っ暗な時間と見え方はほとんど変わらないくらいの暗さだった。誰でもそうなのかもしれないけど、私は暗くなると必ずといっていいくらい迷子になる。明るいうちでもまあまあ迷子になりやすいのに、暗くなるといっそう自分のいる位置を見失いやすくなる。バンプの新世界(MVがキラキラの街のアニメーション)を流してMVぽい景色を目に入れながら、地図が指しているらしい方向に進んだ。たしか途中まで合っていたはずなのに、もう一度確認したときには地図が指す方向とは真逆の場所にいた。落胆しつつ、道を引き返す。ずっと知らない道。

そのままテクテクと歩いていたら知ってる道に出た。知ってる道に出会えたうれしさがありすぎて、行き先を間違えた。知ってる道から図書館Aに行くはずだったのに気が付いたときには図書館Bを目指していた。図書館Bはもうすぐだ🎶と到着を感じていたのに、私が行きたかったのはもっと先にある図書館だった。ありゃー。再び落胆しながら、地図に頼ってたぶん合ってそうな道を歩いた。道に刺さってる地図のほうがGoogleマップよりわかりやすいかも。世界の向きが決まってるから。Googleマップだと今向いてる方向がどっちかすぐ見失っちゃうから。都心だと特に目印が見つけにくい。ここに表示されてるスギ薬局ってどれなんだろう…みたいに迷う時間がたくさんある。道に刺さってる地図に、目的地周辺らしき場所が書かれているのを見つけたときは本当にうれしかった。安堵。迷子の終わりが見えた安心。

やっとのことでたどり着けた目的地。アナウンスが入る。「本日の(やりたかったこと)の受付は終了しました」あ"ーーーー!!!もう!!迷子になって遅れているうちにやりたかったことが果たせない時間になっちゃった。迷子になってないで帰ればよかったよ、それなら!

疲れちゃったな、明日にでも取り返せるかなあ。今日の失敗たちを刻むような日記。同じ失敗をくり返さなくても、失敗の種類って無数にあるからまた新しい失敗しちゃう可能性はず〜っとあるの、イヤだ。あー、時間の間でがんばります。(おわり)

2021年11月28日 レッドブル、紅の牛。

中国や韓国、タイとかアジアのいろいろな国の商品が買える場所につい立ち寄ってしまう。上野の地下商店街とか。

中国のRed Bullって「紅牛」というらしい。

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牛だ。牛が角を突き合わせてる。

Packshot

日本で売ってるレッドブルも牛が角を突き合わせているのだけど、中国のはそれよりもかなり全面的に牛だ。「翼をさずける」の印象が消える。「パワーをあたえる」とかの文言がついているほうがしっくりくるくらい、力強いデザイン。エナジードリンクって忘れてたけど「エナジー」ドリンクだった!エネルギー!!ところでなんでエナジードリンクってエネルギードリンクじゃなくエナジードリンクなんだろう…

アジアのなかでは日本以外行ったことないから現地のことは何も知らない。こないだ買ったインドネシアジャスミンティーことテーボトル(Tehbotol)は刺激が強く、口のなかに動物園が広がった。「インドネシアで一番人気のジャスミンティー」という文句に騙されて、ラベルが数種類あったのでなんとなく大丈夫だろうという気になり2本買ってしまったことを後悔している。まだ1本残っているの、どうしよう…。飲む気にならないのに排水溝に流すのも気がひけるほどの不味さだった。

ココナッツミルクやココナッツジュースは飛びぬけて口に合わないことがない気がしてる。だいたいおいしい。FOCOってメーカー(?)のジュースたち、グアバとかマンゴスチンとかマンゴーとかパッションフルーツとか、おおよそ南国を象徴するみたいな果物のジュースたちはうまい。

お茶は口に合わないことが多いかも。中国のお茶、王老吉も飲んでみたくて一度飲んだけど、甘い味が確かめられてよかっただけで、もう飲まなくていい気分になった。恐らく一番小さい350mL缶にしておいてよかった。
最近、CHABAAのジュースを普通のスーパーでも売ってる。スイカのジュースは青い味がして好きじゃなかったな…マンゴーがおいしいらしいのでちいさいやつ見つけたら飲んでみたい。

普段、あまりジュースを飲む習慣がないのに海外の知らない飲み物となると飛びつくように飲んでしまうの、ただ知らない味を知ってみたいだけだ。慣れ切った日本と未知の海外。慣れるほど飲むこともないから、ただ珍しさだけずっとあって知らないから飲んでるだけだけどまあそれでいいと思う。
『グヤバノホリデー』(panpanya)読んでからずっとグヤバノのジュースやドライグヤバノ探してるのにいっこうに見当たらない…火鍋もいつか買いたい変わり種にある。ヤマモリのタイカレーシリーズのなかでまだ食べたことないのまだいくつもあるからそれも食べたいな。

ところで、「豆乳」って中国語だと「豆浆」というらしく自分のなかではこっちのほうがしっくりきている。…?と考えるわからなさが、「豆浆」には少ない気がする。漢字が表意文字なおかげで(それに会意文字なんていう意味がわかりやすいものもある!)なんとなく「」が染み出た液体でありそうな推測がたつ。血漿(血しょう)とか割と日本語でも中学までに習うような身近な概念に、液体を意味するっぽい漢字が使われている印象もこのしっくりに加担しているかもしれない。(恐らく「漿」は常用漢字ではない、あるいはなかったから「血しょう」表記になっているはず…)日本でこれから「豆浆」が「豆乳」にとって代わる名前になる可能性はなかなか低いと思うけど、このしっくり具合を味わってほしいからこの中国語は広まって欲しい。